わかる明日が来ます

 島本和彦:著『アオイホノオ(6)』小学館少年サンデーコミックススペシャ


待て待て待てィ!


どうして1981年の正月に、『ショート・ピース』がアクションコミックスで読めるんだ!?
どうして『ハイウェイスター』と同じA5判なんだ!!


その時点で出ていた『ショート・ピース』は、奇想天外コミックス!
B6判の『大友克洋自選作品集(1)』!
正月だったら、まだ奇想天外社も倒産していない。「奇想天外」も休刊していない。


A5判の『ショート・ピース』がアクションコミックスから復刊されて出るのは、
奇天が倒産して、
大友克洋が「SFを書いて評判に」なって
「週刊連載も可能」であることを示して、
そのおかげでブームになって売れた、その先の1984年だ!


20091025114928 大友克洋:著『ショート・ピース 大友克洋自選作品集・1』奇想天外社:奇想天外コミックス
 #20110615160029 大友克洋:著『ショート・ピース』双葉社:アクションコミックス


1981年に「いま流行っていて面白いから、読んでごらんよ」と
大友克洋を薦められることは、そりゃ絶対にあったのだろう。
そして、その時点では単行本は2冊しか出していなかったのだから、
友人から渡される大友克洋というのは、
畢竟、『ショート・ピース』と『ハイウェイスター』の2冊になるだろう。


(6月にならないと『さよならにっぽん』は出ない。)


20110615160027 大友克洋:著『ハイウェイスター』双葉社:アクションコミックス


sayonaraNIPPON.JPG 大友克洋:著『さよならにっぽん』双葉社:アクションコミックス【参照】


でも、そういう体験が本当にあったのなら、
その2冊の「サイズが違っていた」ということは
かなり重要な記憶として、特筆されるべきことじゃなかったのかと思うけどなあ。
借りて持って帰るにも、持ちにくいわけだし。


『ショート・ピース』と『ハイウェイスター』を借りて読んだ、という「話」に、
2冊の同じサイズのアクションコミックスを渡された「絵」を描いてしまったのは、
これは「絵」を担当しているだけの作画者:島本和彦の大ポカでしょうね。
本の表紙を漫画の中に描くために、「資料」を捜したら、双葉社版が見つかったので、そのまま描いた。


もちろんオレは「話」を担当している人が別にいる、と思っています。
そうでなければ、島本先生自身の体験談だけでは、80年代を総括する連載作品になりません。
少年誌とTVアニメぐらいしか出てこないから。(あと自動車教習所。)
その頃、漫画界に「ニューウェーブ」というものがあったことを、
若き島本先生は、まったく知らなかったのだろうし、
知らないままで困らなくて、そのまま「島本和彦」になってしまったわけだから
今になって、実はよく知らなかった大友克洋になんて触れる必要はなくて、
ただずっと「あだち! 高橋!」と言っていればいいんでしょうけれども。
(たぶん島本和彦大友克洋の存在を最初に知ったのは、角川アニメの『幻魔大戦』だと思う。)


しかし、そういうわけにもいかないのは、「庵野たち」のパートがあるから。
こっちこそ、「話」を担当する人が別にいなければ、続けられない。
島本和彦の体験談だけで進めるなら
「大学の同期で庵野ってヤツがいた。変人だった。絵が上手かった。以上」で終わってしまう。
それこそ当時から、今回の学食のシーンのように、
「アイツら、年上の人と何か喋ってるなあ」としか見ていなかったんでしょうね。
そのままで島本和彦は「島本和彦」となり、
「あだち! 高橋!」世界の住人となり、別段それで困らなかったわけだけど。


(自分の青春として少年漫画家チャレンジ物語を描いていたはずが、
 いつの間にか同級生自慢をやらされているハメに、というのは気の毒だと思うけど。
 「そっちのほうにこそ需要があるのか、オレの話は期待されていないのか!」
 それは、悪いけど、その通りなんだろうなあ。)


とにかく「庵野たち」のパートを、存分に描くためには、大友克洋の説明は避けて通れない。
だって、これから岡田斗司夫が出てくるんですよ?
みんなで『DAICON III オープニングアニメ』を作るんですよ?
「その頃、大友克洋がいた」ということは言っておかなくちゃいけないでしょう。
それだけじゃない、吾妻ひでおがいたことも、いしかわじゅんがいたことも。
そんなこと、島本和彦は当時から知らなかったし、知らないままで今でも困ってないのに。
これは誰か詳しい人に「話」を頼むしかないじゃないか。
その「話」を元に、知らない漫画の本についてでも後から資料を揃えて、
作画者に徹して、言われた通りに描くしかないじゃないか!


(それにしても、『ショート・ピース』の件で分かるのは、
 「話」の担当は、『アオイホノオ』の担当編集者とも、さらに別だ、ということでしょうね。
 大友克洋が…を言い出したのは、原稿を事前にチェックできない立場にいる人。
 さぞや、今ごろ歯噛みして「これ違う! ここ奇天版!」と口惜しがっていることだろう)


島本先生本人からは、岡田斗司夫も『DAICON』も、
大友克洋の名前すらも放っておいたら出てこない。
(生来の「自主映画」アレルギーみたいなものも含めて。)
「いや、これは本来、オレの青春体験記だから。
 そんな、今から他人に教わっただけの話より、
 むしろ矢野健太郎の話がしたいんだ」と言い張るかも知れないが、
矢野健太郎とのエピソードに特化するにしたって、
ニューウェーブ漫画」の説明は不可欠になってくるんですよ。
だって、作中で引用されている、学漫誌の「やのけんたろー」による日記風エッセイ漫画。
吾妻ひでおの影響が丸出しじゃないですか!


この頃は大友克洋の注目度以上に、吾妻ひでおが大ブームで、
大学で漫研に所属しているような人間は、ひとり残らず影響を受けていた。
しかし「あだち! 高橋!」あるいは「石森! 手塚!」しか知らない島本和彦には、
矢野健太郎の、くわえ煙草の自画像キャラクターを見ても、そこを指摘できない。
(さすがに吾妻ひでおの存在ぐらいは当時から知っていただろうけども。
 『魔女先生』や『星の子チョビン』の人、としてネ。
 その「石森コミカライズ」の人、あるいは『ふたりと5人』の人、という、なまじの認識は
 ニューウェーブ時期の吾妻ひでおブームを理解するためには、
 かえって邪魔になっていたことは言うまでもない。)


しつこくしつこく大友克洋に「この漫画家に週刊連載は無理! 無理! 無理!」と言っているのは
「後に『AKIRA』を週刊で…」というオチのためなのだろうが、
ここで、せめて1981年当時の「漫画アクション」を開かせて『気分はもう戦争』を読ませて、
「ほら、やっぱり月イチが限界なんだよ!」とでも言わせておけば
島本和彦ともあろう人の「ニワカ」「モドキ」「ピンチケ」感は減少されていたはずだ。


(『アオイホノオ』の時代考証が甘いことは
 最初から気になっていたが、(【参照】
 もしかしたら武田康廣が終始一貫、『快傑のーてんき』の扮装で現われることも、
 その一例だったりするのだろうか。
 オレは、「漫画キャラクターとして昇華された関西芸人・武田」だと思っていたから、
 いつも『快傑のーてんき』の格好をしている、というところを、
 むしろ喜んで笑っていたんだけど、
 「1980年に登場した人物が、1982年の主演映画の扮装だった」というのが
 単なる時代考証ミスの結果だったら、コレはやりきれませんよ。)